至高の本格休日
張り出されたシフト表を前に、沫沫沫沫と戸惑いの念が身体を駆け巡った。
( (……………名前が載ってないッッ!!) )
ホワイトボードとは情報を掲示するだけのものではなく「はい!はい!これからお仕事の時間ですよ!はい!」と我々スタッフに“仕事モード”へのエンジンをかけ始める役割も担っていると知った。
軽くエンジンのかかり始めている状態で、シフト表に自分が居ないという感覚が不思議だった。
( (あ、おれ死んだ時絶対に幽霊になってこの世に残る厭なタイプだ。) )と全く関係ない妄想は一旦端に寄せ、シフト表を何周も確認したが矢張り私の名前は書いていなかった。
リーダーとも確認したのだが、矢張り矢張り出勤日ではなかった。
それはつまり、ぽっかりと休みが生まれたということだ。
いや、にわかに爆誕したのである。
わざわざ来たのに…と“お気の毒空気”が薄〜く流れる前に退勤の打刻をし、出来るだけバレないようにすすすと更衣室に向かった。
( (今日という日をどおしてやろうかぁ!?!?!?) )
ホワイトボードの作用により回り始めたエンジンの向かう先が「休日」になっており、喧嘩してぇぇの面持ちでエレベーターで降りる。
自動でドアが開くと影となるビルの重なる平面の向かうで、かんかんと照りつける芳醇な青空が広がっていた。
ケッタマシン”Bダッシュ号”(青のフレームに赤っぽいぶっとめなタイヤを履かせた愛車)に跨り、脳の飛んでく方へただ私は足を回した。
今日に限ってギターを背負い四里を走ったことを“わざわざ”とは思わなかった。
昨晩想像していなかった時間軸に居る、この空間に以上に胸が高鳴った。
「大好きなパン屋でゆっくりしよう」
脳みそは風を切りびゅんびゅんと飛んでいき、「おいおい、気をつけろよ!」と私の身はついていく。
そして幡ヶ谷に入り、私にとっての至福のあるパン屋に辿り着き、外に溢れるかほりに誘われズッズッズと店内に入った。
ここのパン屋のいいとこ。
・焦げるギッリギリまで焼き上げてくれ、香ばしさがたまんない
・種類が物凄く豊富で、緊張が止まらない
・フランスなど海外の伝統的な、また庶民的にも愛されるパンも並んでおり、世界線を跨げられる。
・タルト類も種類豊富で、それも250円といった通いやすすぎる値段設定で、感謝が溢れる
上記から伺えるように、お店の方のこだわりや愛がパンにぎゅうぎゅうに詰まっているのだ。
このお店を教えてくれた友人の樋口氏は「仙豆」と言っていた。
幡ヶ谷に入ったら基本彼に連絡をする。例に漏れずこの日も「いかねか?」と突然の連絡をしてみたが、今日はバイトだと返信が来て、私は本と共に時間を過ごすことにした。
フォッカッチャにスパンダワーにチーズタルト。(これで600円程なのだ)
いつも出勤前か樋口氏宅に泊まった翌日の朝に行くもので「いつもあまり選ばない、昼のセレクト」というコンセプトの元選択をし、その3種がテラスのテーブルで顔合わせをしていた。
日差しの強さに首が焼けるようだった。しかし、手元にはそれ以上に焼けたパンと、五感すら鈍くさせる文章の世界があった。
一服。まさに一服であった。
突然の休日というハレの空間での一服。
昔っから大切にされている日常の中の“ハレ”かあ。
なんて思っていると背の向こう側で何やら愚痴を垂らしているセレブリティな奥様方の声が聞こえてきた。
聞かない様に、と文章にしがみつくように追うも、完全に耳の意識はそちらに働きかけており、もう聞くことにした。
しばらく聞いていると( (どーーーでもいいっ!しょうもな!) )と無事飽きることができ、本に意識を戻した。
しばらくして、腹は一杯なのだが、もう一個注文しちゃうか…!?とハレのよくない作用が動き出した。食欲ではなかった。ハレが悪いのだ。
首も流石に焦げそうで、振り返ると先程のセレブリティな奥様方が帰宅準備を始めており、丁度日陰になっていたので私も静かに移る準備を始めた。4つ目は我慢しよと本に垂れ下がる紐を挟んだ。
カツカツと歩いていく音が背後で鳴った。
今だ…!!と、脳内の喧しさは鳴らぬようゆっくり席を移った。
すると日傘が置きっぱなしになっていた。
げげげ…。
5時の方角を見るとまだ奥様方の歩いている姿が確認でき、視線を”Bダッシュ号”に移した。
くっそ…、お一つ、小粋なことしちゃうか…。と地面を蹴った。
背後からストレートで向かってダイレクト吃驚を避けるため、怪しむ“あそび”をちゃんと設けられるように、弧を描く様に向かって声をかけた。
「あ!私のです!すみません!ありがとうございます〜」。
良かったですと会釈しその場を離れる時「多分、この場を離れた瞬間、ロード時間もなく愚痴話に戻るんだろうなあ」と想定して、その場を離れた。
しかし、それは邪推に終わった。
「いや〜!良かったねえ!」「ほんとほんと!助かったねえ」と遠くでも聞こえる声で話していた。
すまん。非常に、すまん。
胸中で手を合わせる様にして、パン屋に戻った。
まあ、“良い人”はやったな、これは徳を積んだな、うん、しょうがねえ、これは報酬をやろう!とズッズッズと店内へ。
私はクロワッサンの類いのものを頼んだ。
いつもと時間帯が違うから店員さんも違っていた。
お客さんも落ち着いており、その店員さんは端に置いたギターケースを見て「音楽やられてるんですね」と声をかけてくれた。
「私もギターやりたいんですよねえ」と仰り、普段は「時間と体力っすねえ」とふいに答えてしまう私も、ここは凄く良いボッサが流れているのでよく聴いていたら弾けちゃうかもですね〜、と答えており「ふふふふ」が生まれた。
それからまたしばらく本を読み、眠たくなったりしながらも日陰でゆっくりと時間を過ごした。
これぞ至高の本格休日である。
あとはこのハレ晴れ日和な1日が私の妄想でないことを祈るばかりである。
いや、本当にあったはなしである。