退屈と目標
今日一日、人はどんなタイミングで身に「ヲタク」という突然変異が生まれ、その深みにハマっていくのだろうか…という謎を一人漠然と考えていた。
私のバイト先は幸いなことにヲタが多いため、ふらっとゲームに目覚めたきっかけを聞いてみた。
ある人は攻略本の制作側のインタビューを読んで、ある人はゲーム雑誌に載ってる凄テクの存在を知って。
其々に多種多様な動機があり、聞いていてとても面白かった。まさにその人を形成している話だったのだ。
そして、彼らは今もなお無意識なままに高くアンテナを張り巡らせている。
それはみんな(自分含め)、毎日に刺激や楽しさを見出そうとしているんだなあと思った。
好きの対象をきっちりしっかりと追っている。
これを「ポジティブだねえ〜」で片付ける人は本当に私の即死コマンドを見舞ってやりたいものだ。
空上→ジャンプ→下B→空下!!!!!(※実際出来たことはない)
最近自分の中で上手く言語化できずに悩むことがあった。
それは自分自身が創作をする動機についてだ。
今回はそのことについて、どうなの、どうなのよと考えを書いていこうと思う。
私自身、音楽は勿論のこと、アニメ、漫画、ラジオ、ゲームをプレイするのはきっと、出来るだけ退屈(=虚無)から離れるためなのだ。
私は今までに多くのコンテンツから救われてきた。
中学の頃には、全てがもう退屈でつまらなかったのだ。
いやいや部活をやり、帰宅後ちゃんと宿題をして早めに寝るという”ある程度のいい子”をこなす作業ゲーのような毎日。
そんなある日「ラジオがあるから〜」と家族内での禁断の掟を破り、夕食を一人部屋へ運んでi pod nanoを点け、ずっと気になっていたラジオの番組を生放送で聴いた。
その時に何か拓かれる感覚がした。
学校にも家庭にも、良くも悪くも体裁というものがどうしても存在してしまっている。
それがつまらなかったのだろう。
ルールといった安心し合うための白々しさ(勿論大切なものだが)、その向こう側に本当の安心があるような気がした。
音楽も歌詞も漫画もアニメも映画も本も、私をその退屈の向こう側へ連れていってくれたのだ。
また毎日と闘う術を教えてくれた。
この体験はバイト先での会話ともどこかリンクする。
思い返せばその話を聞いた人たちは、そこに居ない第三者の名を挙げて、そのいじりしろをテーマにそこの輪の結束力を固めるなんてことはしない。
好きなモノの話題でしか話したことが無いのだ。とても健やかな会話なのだ。
ただ、難しいところ、第三者の名を挙げてコミュニケーションを取る人も、実際良い人であったりする。
その人が悪いけど悪いわけではない。諸悪の根源は「退屈」にあると私は睨んでいる。
その中学生の頃の体験に救われた記憶、そして現状でしんどいな〜と思う感情が、今の私の創作の動機に繋がっている様に思う。
つまり私の果たしたいこと。それは、どうしても抱いてしまう退屈の向こう側へ行けるモノ・コト(空間)を作るということだ。
そして、おいおい、しょうがねえなあ〜!と笑えるモノでありたい。
(これは他者貢献のように思えて、非常に御都合主義的な話でもある)
そのためにきっと大切なことは、茶化さず作ることだ。
作って、出すという行為には色んな恥ずかしさが伴うのだ。
しかし、なるべく茶化さずにやらねば自分の特性上、厳しい。
去年はそれに気づく出来事が多く起こった。
檸檬との雑談中。「土屋さんって分かってほしいって思ってないですよね?」と言われた時に、あ…たしかにそうかもしれない…と正直思ってしまった。
分かってほしいと思っても分かってほしいというスタンスは取れないし、説明という助走にその相手を付き合わせるわけにはいかない。だったら個の話は省こうと選択してしまう。
しかし、それって危険だよなあ。
とある日、偶っ偶っ大好きなゲーム会社の方と接する機会があった。
その会話の中で「〜に喜んでもらいたい」という言葉を何度か仰っており、凄く印象的で衝撃を感じた。
名古屋城で演奏をした時、久々に中学の頃の恩師に連絡取った。
どうやら練り歩きのライヴを見てくれたそうで、楽屋に戻ると「今日は呼んでくれてありがとう。今度はちかとくんの心の見える音楽を聴きたいな」とメールが入っていた。
言い訳は多くあるが、さすがの恩師。もっと深いところを見抜かれていた。
そして、バイト先での雑談中に「土屋ってほんと表面だよね〜」と一人の先輩に言われた。すると、驚く程の速度で「土屋は表面!!!」とpcで作業中の先輩が振り返って言った。
思わず水を吹くところであった。こんな速い速度の共感を見たことがなかった。
とはいえ、例えば誕生日を祝い合うことこそ、お互いの関係性をキープし合う表面の付き合いだと感じてしまう。
そんな中、今年の頭にレコード屋のオントエンリズムストアのアツシさんに呼んでいただき、阿佐ヶ谷のバーにて一人弾き語りのライヴに出た。
もともとがベースも一緒だったのだがドタキャンされ、一人で出ることになった。
ならば、出来るだけ自分の曲を歌おうと、ギリギリまで曲を作った。
自分の感じる白々しさや諦念、そんなんばっかが形になっていき、本番しっぶい空気になるかもしれないな…と少々ビビりながら会場へチャリで向かった。
なるべく目の前の人に届けるより、ポケモンでいうトリックルームを張って場面を変えるような、そんな心持ちで望んだ。
じゃらん〜………キュッ。と演奏を終えた後、みんなスマホを見てたりするんだろうなあと顔を上げてみると多くの目と目が合い、びっくりした。
聞いてくれていた…!?
普段はインストバンドをやっているので、いつもとはまた違った感想を頂けて新鮮だった。
え、ちゃんと歌詞も聞いてイメージしてくれたんだ…!と一寸恥ずかしかった。
また違う表現方法がある。出来るだけ茶化さないことにより、手応えというか、なんだか感応えのあるライヴで、とても大切な日になった。
改めて呼んで頂けて、出させて頂けて良かった。
去年末から今年にかけて、改めて己の足りなさに気づいた。
それを踏まえて、今年の目標は「茶化さず”ズ”を届ける」だ。
去年の目標は「”ザ”から逃げるな」であった。
中二的な行き過ぎた天邪鬼体質のある人間のため、改めて”ザ”に向き合うという経緯があった。
実際行ったところ、やっぱり人は”ザ”に安心感を求めており大切とされているんだなと感じた。
そして自分の趣味にも十分王道なモノは存在しており、それを自覚して自分の表現を考えるきっかけにも繋がった。
しかし、同時にその対象が”ザ”だと勝手に此方が決めつけてしまうのは、楽ちんで傲慢だなと感じた。
“ジ”(自)でいったほうが本音で繋がれる場面も存在するのだ。安易な”ザ”は大間違いなのである。
そう考えると、事の分かりやすさよりも、差し出し方にちゃんと筋が通ってて、それをちゃんと伝えられるかどうかが大切なんだな。
(むっっず!!!)
結局、私は”ザ”(王道)には成りきれないし、”ジ”(自)でやれば極極細な空間しか作れない。
ところが、どちらにも愛でたいポイントはあるのだ。
ならば、そのバランス感をんん〜〜と考えて”ズ”を作る、それを茶化さずに提示することが私の特性に合う感覚なのかもしれない。
そう思いゼルダのマップをゲットした時よろしく、私は今年の目標として掲げた。
退屈になる気持ちが少し減るきっかけに繋がったら嬉しい。
普段そんな話をあまりしないが、漫画を描いている先輩となんかのタイミングで話していたら「たしかに。ただ退屈なだけにSNSで流れてきた誰かの悪口を見るより、MURAバんく。の音楽を聴いた方が豊かだよな〜。おれはそっちの世界線が良いな」と言って棚の影に消えていった。
去り際の先輩に聞こえたかわからないが、面白い世界線を作っていきましょうと私は言った。
それが死ぬまでの野望である。